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目の強さ


目の強さについてレッスンしてる。ボールを見る目が強すぎると腰は固まる。弱すぎると腰が泳ぐ。目の強さは身体全体の動きに大きな影響力があるからだ。問題はなぜ目の強さがコントロールできないかどうかだ。

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剣術の達人が、相手の剣の動きを読みきっているときは数センチしか距離がなくても落ち着いているように、相手の動き、起動、待ちがはっきりしていれば目の強さはいい塩梅を保つことができる。

テニスでは次の3つだと考える。

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仕事には表と裏の仕事がある。明日は裏の仕事に着手する。それと同じように身体の使い方にも表と裏があると思ってる。ただどちらも本質的な要素はとてもシンプルなことなんだと思ってる。

 

 

レフティー


このブログで描いてる絵は、生徒さん用の教材としても使うことがあるために、モデルが右利きである場合が多い。けれど、描きたくなるモデルは正直レフティーだ。自分の師匠もレフティーだってのもあるし、テニスでも時代を変えてきたのはレフティーだ。

態度の悪さ、トラブルメーカー、反逆児と悪いところもたくさんありルールや一般常識を基本的に好まない。けれど、そんな悪いところも全て許せてしまうようなカリスマ性や美学が彼らにはあった。

彼らのテニスを見ていると、持ち方も、構え方も、振り方もない。打ち方なんてものは自由だと言わんばかりの自然な動きを見せる。攻め方だって自由だ。むしろ危険な綱渡りのような戦法、コースを楽しむかのように相手を倒す。

ロッドレーバー

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踏み込んで打つ並進運動、球種はフラットおよびスライスという既成概念なんて、レーバーの打ち方にはなかった。オープンスタンスの回転運動を使いドライブ回転で相手をベースラインに釘付けにした。また、フォアハンドだけならともかく、ウッドラケットで片手打ちのバックハンドでもドライブショットで前に出てくる相手をパスで抜いた。ファーストサーブはコースを丁寧につくもんだという時代に、ロケットといわれる強烈なサーブでエースを量産した。

 

ジミー コナーズ

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コナーズも、まだベースラインからエースを取るなんて愚かだといわれた時代に、平然とベースラインからでもエースをとりにいった。とくにフォアハンドよりバックハンドが強烈だった。しかし、このバックハンドも当時は両手打ちバックハンドなんてリーチが狭く、極端に非力なプレーヤーだけが使うショットだという常識を壊してしまった。グリップも変な握りだったが、その変な握り方のほぼワングリップでサーブから、ストローク、ボレーまで全てをこなした。

 

ジョン マッケンロー

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相手に完全に背中を向ける極端なクローズドスタンスからのサーブは、誰もがコースを読むのに苦労させられていた。逆にマッケンロー自身は、相手のコース予測が早く、ネットに出ればマッケンローのいるところに相手が打っているようにしか見えない鮮やかなネットプレーだった。

 

教える側にとっては最も真似をしちゃいけない3人で、見る側にとっては最も美しく楽しい3人でもある。けれど、教える側の私にとっては、本当は真似をすべきことが多い3人で(真似るとこ間違えちゃダメだけど)、最も考えさせられる3人でもある。

そんなこと考えながら、GW休暇明けのレッスン内容を考えてる。

 

 

惜しい


トランプでも、各自均等に配られてそれを減らすゲームがある。メジャーなのが大富豪、ババ抜き、7ならべなどである。ゲームなんだから単純に出したいものから出すというわけにはいかない。いいカードから出しすぎてもいけないし、残しすぎてもいけない。相手の出し方や流れをみてのタイミングや順番が大切になる。メンタル的には我慢や忍耐が必要だし、勝負所の勇気みたいな思い切りも求められる。

公立の学校の先生なんかは、授業内容を指導要領に沿ってやらないといけない。だから、基本的に内容は同じで使う教材も同じなんだけど、トランプゲームみたいなタイミングや順番の違いで面白い、面白くないがはっきりと現れてしまう。落語の噺なんかはもっと顕著にそれが現れる。

私の本業のテニスやレッスンも似たようなところがある。若い子のレッスンを見てたら、私がやっていたドリル、言い回しなどを真似てはいるのだがタイミングや順番が全然違う。

つまり、結果としての違いは、良いときも悪いときも大きな差として出てくるのだが、プロセスでの中身はそんな大差がないのだ。むしろほぼ一緒にも関わらず結果としての差が大きいので、全然違うルートを探してしまったり、ないものねだりになったりして余計に結果が悪くなることがよくある。ここが『ものの見方』なんだろうと思う。

慰めじゃなくて、みんな惜しいところまで来てるんだ。あとちょっとなんだけどなあ。

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何がしたいの?


なにやら若いコーチ同士のやりとりで『レッスンで何がしたいの』というフレーズが出てきます。たいていの場合こういうのは先輩が後輩に対して使っているケースが多く、その後輩が何もいえないという構図になります。私もさっきまで『何がしたいの?』と後輩に言い、後輩は追い詰められたような顔になっていました。

『何がしたいの』ということは、それをしてどうなるかということを聞きたいのです。つまりこれから起こることについて聞かれているのです。その『これから起こること』のどの部分なのかがわかっていない場合があるのです。『これから起こること』なのですから未来のことなんです。ただ、未来というのが漠然すぎて、どこの未来なのかがわからないということが問題なのです。

私は未来を3つに分類して考えます。

例えば生徒さんに「少し上に打ってみてください」とアドバイスをするとします。すると今までネットにかけていた生徒さんのネットミスが減ったり、深いところまでボールが飛ばせたり、突っ込まずに少し待ちが出来ました。これはそのアドバイスによって『次』が出来たということになります。この次が出来たことは、それはそれでいいことなのですが、あくまで次までしか出来ていないということでもあります。生徒さんの方も次が出来たことは悪いことだとは思っていませんが、心の中は「まあよかった」程度のことで満足までしていません。

同じアドバイスでも、上に軌道を描くようにしたことで相手の入り方が見えたというように、打った後の風景が変わったという現象が起きたとします。すると生徒さんの心の中は「あれっ」となります。「今のはなに」「もしかして」というようないい意味での胸騒ぎがしてきます。これを『先』が見えたといいます。上に軌道を描くことによって、そのショット自体は相変わらずのネットミスだったり、短いボールになってしまったというような次の結果なんてどうでもいいのです。先が見えたということは目先の結果ではなく、これからのプロセスが見えてくるので嬉しいのです。ちなみに野球の一流選手が何かを掴んだ時というのが凡打である場合が多いのも先が見えているからです。

そして、最後に『未来』が見えるということについてです。今まで見えなかった先が見えることによって、方向性というものが見えてきます。その方向性で練習や鍛錬をしていけば、今まで勝てなかった相手を倒せるということが確信できたり、上がれなかったステージに進級できる姿が頭の中にくっきりと見えてくるのです。それはまるで映画や連続ドラマのように鮮明で、今から具体的になにをすべきか、なにを準備すべきかなどかなりはっきりと見えてくるのです。中日ドラゴンズの監督だった落合博満さんが試合後の報道陣に「今日の収穫は」と聞かれ「福留のショートゴロ」なんて答えるのは、次しか見えていない人にとってはショートゴロでゲッツー食らって試合負けたのに何だろうとなります。先が見えてる人は主力選手が復調するきっかけがわかり、打線に流れができるのだろうと思うでしょう。未来が見えている監督は、これからの夏場はピッチャーが疲れてくる。しかし、怪我でリハビリ中の計算できるピッチャーが8月末に戻ってくる。それまでなんとか打線に助けてもらう必要がある。また、福留の前を打つ荒木と井端は夏場に強いから、福留の前に打者が出て、福留が返すというケースが増えてくるだろうというようなところまで、かなり具体的に全てが見えてくるのです。

よく『目の色が変わる』といいますが、これは何かしらの未来が見えたということを意味するのです。逆に『目が死んでる』というのは何も見えない、次しか見えていないということを指すわけです。

『何がしたいの』の先に未来があればいいんです。目の輝きが想像できるかどうかです。

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本当は軽視してはいけないこと


落合博満さんが中日の監督に就任したとき、まず声をかけたのは勝崎耕世というコンディショニングトレーナーだった。しかも他球団で仕事していたにも関わらず引き抜いた。「嫁に相談してみます」という勝崎に対して、すぐに嫁さんにアプローチをしたようだ。給与額も他球団のトレーナーの倍払っている。

野球チームの場合、監督、ヘッドコーチ、投手コーチなどがクローズアップされる。しかし勝崎さんのようなトレーナーやスコアラー、スカウトといった裏方の教育と報酬にこだわり、監督が信頼し、それに応える人材がいるチームというのは結果が出ている。箱根駅伝で三連覇を果たした青山学院にも原監督を支えるフィジカルトレーナーの中野ジェームズ修一という人がいるようだ。また、スポーツチームにとって選手のコンディショニングは絶対的な秘密事項であり、これを外に漏らさないための情報統制ができるかどうかも重要である。

織田信長には羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家、丹羽長秀という名将が部下に揃っていた。しかし信長の仕事をビジョン通りに遂行できた最たる要因は他にあった。それは母衣衆というチームで、戦いの際には大将の側で旗を持ち自分の身体を盾にしてでも大将を守るボディガードみたいな役割がある。信長はこの母衣衆にそれだけでなく、情報伝達、形勢判断、武術、戦術など様々なことを教育し、最も信頼できるエリート集団に育てたのだ。そのため、幹部が集まる会議では何も重要なことは話をせず、重要な戦略は全て母衣衆と酒を飲みながら立てていたそうである。

信長軍団において母衣衆は絶対で、秀吉、光秀、勝家といった重鎮武将でさえ、母衣衆の伝達は信長の命令と同意であり逆らうことはできなかった。信長自身も母衣衆に寄せる信頼は絶対的なものがあり、彼らを自分と一心同体の親衛隊であると述べている。

本当に大切になものは何なのか。それは軽視されていないのか。自分の側にある軽視されている、当たり前に思っているものを見つめ直すことで見えてくるものがあるのかもしれない。

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興味→練習→試す→実戦


子供が歴史について興味を持ち始めたので、お父さん先生の授業がスムーズになってきた。ホワイトボードに今日の題材として『長篠の戦い』って書いたら振り仮名打つ前に小3の息子は漢字が読めていた。またGoogleのChormecastってのをセットしすれば、iPhoneからの動画をテレビに繋げれたのでよりスムーズな授業が可能となった。

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とにかく興味を持てば何でも早い。学校の常用漢字のテストでは満点を取れないし、本読みでは習っていない漢字はわからないと言うのだが、歴史の本に書いてある漢字はすぐ読める。『長宗我部』なんて朝飯前のように。

理科だってすぐに覚えるだろう。長篠の戦いは織田信長が有名な鉄砲の三段撃ちという火縄銃を使って武田軍を倒したという話なのだが、当時の火縄銃は水に弱い。しかし戦ったのは旧暦の5月で今の暦でも6月中旬となる。つまり梅雨の時期なのだ。武田軍の有名な騎馬隊だって疑わしい。馬は音に敏感だ。火縄銃の爆発音を数発鳴らせば驚いて馬は走らない。それなのに武田軍が騎馬隊で攻撃したというのはありえない。

日本史では長篠の戦いを織田の鉄砲VS武田の騎馬隊となっているが、テーマはそこではないのは明らかだ。織田の戦略とそれに対する準備力と武田勝頼という信玄の息子のうぬぼれと油断がテーマとなる。

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子供たちだけでなく私も含め、信長から学ぶべきことは多い。ただ、その学ぶべき信長とは日本史に出てくるイメージの信長ではなく超リアリスト(現実主義者)の側面である。やったことは前例のない斬新で工夫だらけのものだが、全部それらを練習して試してから使ってるところである。

今日はこれからテニスの上手いスタッフたちとの練習会である。昨日も密かに闇練習をしに行ったので、今日はそれを試そうと思ってる。

 

興味


私は頭がよくないと思っている。ただし自分だけの頭がよくないとも思っていない。人間はみな頭がよくないと思っている。だから難しいことは簡単に、簡単なことは難しくという考え方の基本は大切なんだろうと思っている。そう考えると頭がいいということ自体もちゃんとわかっていない。学校の成績がよければ頭がいいのか。お医者さんはみな頭がいいのか。大統領や総理大臣といった国の首長も頭がいいのか。国内年間被害額が40億円ほどある振込詐欺をやってる奴だって頭がいい。その詐欺にひっかかる被害者は頭がよくないのか。

現在、テニスというスポーツで最も強いのがジョコビッチ選手である。世界ナンバーワンにもなるような選手だから身体能力も相当いいとされているが本当だろうか。とくに柔軟性とバランス能力が高いらしい。ただこのような身体能力という観点で見るとNFL(アメリカのフットボールリーグ)の選手の方が遥かに高い。テニスに関わらずスポーツだってゲームなのだから頭がいい方が良いとされる。しかしスポーツにおいても運動神経がいいとは何のことか、身体能力とはどれを指すのか、ゲームに強い賢さとは何なのか…これらを明確に答えられる人は実は誰もいないのである。

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昨年のいつ頃からであろうか、息子たちが歴史に興味を持ちだした。とくに私が何かを仕掛けたわけでもない。はじめは漫画日本の歴史を読んでいただけだったが、今ではその巻の年表を見るようになっている。また、自由帳に武将の絵を描くようになったり、人形で合戦時の陣形を並べて遊んでる。

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学校の勉強でも歴史というものを教えられる。テストには何年に〇〇幕府が開かれたとか、〇〇という制度がはじまったというものを暗記しておかないといけない。私は歴史についての深い解釈ができるのでわかるのだが、学校で教わった歴史には間違いや嘘が多い。勝海舟が江戸城無血開城の立役者、秀吉が信長の仇を討った、義経が崖を降って平氏を奇襲した…みんな嘘である。歴史なんてものは過去の事実から学ぶものだということ自体間違えている。歴史なんて根本的には小説と同じフィクションである。

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では歴史から何を学ぶべきなのか。

歴史だけではないと考える。その他の学校で教わる科目も、音楽も美術も体育も、そしてスポーツもテニスも自分であり、他人でもある人間に興味を持つことを学べるのだと思っている。それは『心』という部分である。心という物自体が非科学的なものではあるのだが、想像力であり創造力なのだ。

今年のお正月は、西南戦争について調べている。

今はグローバリゼーションなんて言って、会社員だけでなく子供たちにもタブレットが配られる時代である。プログラミングを知らない人は今後取り残されるそうで、大手の会社は国内でも英語を話さないといけないそうだ。

明治維新のときは丁髷なんてしてたら世の中についていけないと慌てて七三のざんぎり頭にみながする。イギリスのやってることが全て正しいとされ、汽車を走らせたい、ネクタイを締めたい、植民地が欲しいと何でもかんでもイギリス化である。これを文明開化と呼んだそうだが、今から考えれば子供の飯事レベルである。しかし、その飯事が子供ではなく大人だったために朝鮮半島、中国、ロシアと戦争になり第二次世界大戦に負けるまで、それが飯事であることに気づけなかった。

西南戦争とは江戸時代に武士だった人間が困って起こした反乱だとされている。国内の戦争がなくなり、新たな徴兵制度で武士以外の人間も兵隊になることができるようになった。しかも廃藩置県で実質公務員扱いだった武士の給与は家禄という補助金みたいなものとなり、他に商売をしないと飯が食えない状態に追い込まれていた。確かにその側面があるのは事実だが、そんな単純な理由だけではない。またその首謀者とされる西郷隆盛はそんな士族からの信望があり、若い士族たちを守りたいという男気で立ち上がったとされているが、これもまたそんな単純ではなかろうと考える。

そもそも廃藩置県という制度を施工するにあたって、西郷隆盛は士族の象徴的存在としてお飾りだったと言われている。隆盛が引退して鹿児島に帰るきっかけとなった征韓論にも首をかしげることが多い。西郷隆盛の深い真を知るには、隠居して農業をしながらも鹿児島に作った私学について調べていく必要がありそうだ。士族の若手に対して開講したとされているが、士族のためだけに作られてはいないこと。軍事訓練が主な授業であったことは事実かもしれないが、それは反乱を起こすからではなく、朝鮮半島を攻めて植民地を作ることでもない。それをときの政府が目につけ、反乱の恐れがあるという大義名分から鹿児島の弾薬庫を封鎖しただけである(これも罠だけど)

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『西郷隆盛は私と同じことを考えていたのではないか』という仮説は大変おこがましいが、歴史を学ぶというのはそういうものなのだ。たぶん西郷隆盛は『心』の教育をしようとしたんだと思う。それはやはり想像力であり創造力といった部分であっただろう。西郷隆盛は明治維新という時代に何を想像し、何を創造しようとしていたのか。

知的好奇心という言葉は嫌いだ。

興味でいい。

興味を持つということ。それ自体が心ある証明だから。

 

 

 

 

 

これが大事


歴史に興味がある息子たちを城に連れてった。城というものは戦いに対する備えに様々な工夫がされている。それらを小学生の低学年にわかるように説明していると、いつもテニスで教えてることと一緒じゃんってことに気づいた。

相手を見る

城の良さは、天守閣より櫓(矢倉)を見るべき。そもそも天守閣は櫓を大きくしただけのもの。敵が見やすく、敵からは自分が見えにくいが理想。

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間合い

攻めにくいという距離感が大事。家康が大阪城を落とせたのは、真田幸村を倒したことより堀を埋めてしまったことが最大の要因。

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有利な形

1対1より2対1という有利な状況を作り出せるかどうか。城攻めが無謀だと言われるのも倍はおろか自乗の兵力でないと攻めれないから。この門の兵力が10名なら突破するのに100名かかる。100名なら10,000名も必要になる。

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土台

石垣の反りは『武者返し』って敵を登らせにくくするという目的もあるんだけど、最大の目的は耐震性。誰が考えたのかこの角度が最も優れてる。城なら石垣、身体なら腰だよね。

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体力

本当に大切なのは櫓の武器庫より、井戸の水と兵糧庫がどこに、どれだけ配置されてるか。城攻めは相当の自信がない限り相手もやってこない。だから、基本的には罠で城の外に出させるか、籠城戦といって敵の体力がなくなるのを待つかしかなかった。

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正しい形勢判断をするために


次男坊がよく女性に体重と年齢を聞く。これまでは小ちゃな子だからよかったんだけど、小学生にもなれば成人女性にみんながいる前で体重と年齢を聞くのは嫌がられることがあることくらいは親として教えとかないといけなくなってきた。だからいつも嫁に注意されている。この『成人女性に体重と年齢を聞く』という行為は会社員の課長さん(男性)がオフィスで就業中に部下の女性社員に行うと立派なセクハラとなり罰せられる。しかし、同じ行為でも病院でお医者さんや看護師(仮に男性だとしても)問題ない。

これらも一つの形勢判断の例である。しかし、こんな簡単な例はたいていの人は理解している。しかし、テニスとなるとこれが出来ない人が多い。テニスの場合、この形勢判断ミスというのは打った後を見ればわかる。私はこれを『迷子』と言ってるのだが、まるで小さな子供が迷子になって不安そうにしている目と同じだからだ。それなりの熟練者なら、それでも打った後は構え戻したりはしているのだが迷子になっていることは隠しきれない。経験が浅い人は構え戻しもなく固まってしまう。

これをたいていのテニススクールというのは打ち方や身体の使い方だけの問題にしている。だから「早く構えて」「軸がぶれてるから」などというアドバイスが連呼される。適切な身体の使い方、その人にあった身体の使い方も大切なのはわかる。でも、それと実はつながってるんだけど形勢判断をするためにも正しい『前を見る』と『動きをきる』が必要不可欠なんだ。

先日、テニスしてる動画を撮影したけど自分の動きは理想にはほど遠かった。あまり思いつめて考えすぎると良くないから、今日は子供たちと公園で野球をした。すると次男坊は理想的な『前を見る』と『動きをきる』が出来ている。路地人さんに聞いても『教えてないからやん』という答えになってない答えが返ってきそうだから自分で考えようかな。

女性に年齢と体重を聞いてしまう次男坊は、ボールの見方と腰が使えてる。それくらいのマナーを知ってるお父さんは、ボールの見方と腰が使えてない。何がどうなってんだか。

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モーツァルトから学ぶ モーツァルトで楽しむ


モーツァルト効果なんていって、モーツァルトの曲を聴いてるだけで頭が良くなったり、自律神経が落ち着くなんてことはありえないと思っている。ただし、モーツァルトの音楽から学ぶべきことは多い。そういう意味では頭が良くなり自律神経にもいいのかもしれない。

私たちの業界では何かと運動連鎖という言葉を使う人がいる。とてももっともらしく意味がわからない言葉でもあるんだけど…。そもそもこれも私は『止まる』連鎖だと思ってる。動きより止まるタイミングとリズムの方が重要だとしか思えない。

テニスの動きやラリーに関するタイミングやリズムはモーツァルトの曲と同じだと感じてる。長調の音階や音の切り方は私がテニスで考える理想形なのだ。とくに音の切り方は『動きを切る』『待っといて』と最近のレッスンで連呼していることに深く結びついてる。

『モーツァルトの手紙』より一節を引用

望みを持って努力することで、
幸せを得ることができるのでしょう。ただし、過大な望みや過多な望みを持つと、
得られずに、不幸になってしまうのではないでしょうか。現実的な望みを持つことが大事なのでしょうが、
容易に得られる望みではあまり幸せにはなれないでしょう。成功よりも、
楽しむことを重視できれば、
夢を持ってイキイキと生きられるのではないでしょうか。

今日も同業のコーチに怒ってしっまたけど、何を伝えたいのかがまとまっていないことに苛立った。まとまっていないということは伝えたいことが多すぎるからだ。それでいて、その伝えたいことが生徒さんに伝わるということをあまりに容易に考えすぎている。生徒さんに伝えないといけないことは現実的であり、かつ容易すぎることではいけない。そして過大すぎたり過多すぎてはいけないということ。

そんなことを考えながら、生まれたばかりの我が子にモーツァルトをよく聞かせてた父親が『モーツァルト効果』ではなく『モーツァルトから学ぶ』なんていう記事を書いてることが面白い。そして、モーツァルトという人がこんな矛盾だらけの人間だったと想像するのも、また楽しいことである。