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定石


連休中だけど、今日はみっちり練習した。午前中はムーくんと1時間ほど。午後は独り練習した。いまさらなんだけど自分の身体と向き合おうかなんて、酒もタバコも大好きなくせに、関節の可動域やら連動に関することを考えはじめて、自分なりの体操でいろいろ実験している。

頭の空想に関しては『定石』について考えてる。藤井相太くんは大山康晴永世名人の棋譜を全て把握してるそうだが、大山永世名人が残した定石を指してはいない。定石はそのとき、その場面で、その人が最善だと思われる手を選んだだけで、定石によって出た結果より、どういう考えで、それが最善だったのかというプロセスや考え方が大事だ。羽生善治さんは升田幸三先生の寄付が好きだそうだ。当時は無理攻めだといわれて結果が出なかった将棋でも、今の最先端のような定石を指していることを見抜いていた。要するに、結果のみにとらわれて打つ定石というのは、結果がうまくいかなかったときの言い訳でしかない。大切なことは結果の良し悪しではなく、それぞれの場面で『なにが最善なのか』という選択をどういうプロセスや考え方で導いたのかということなんだと思う。

身体のことでも定石はある。筋トレが必要、不必要だとか、有酸素だとか、初動負荷だとかいろいろある。しかもそのれらの定石はここ数年でころころと変わっている。今は情報を手に入れるのが簡単だからだらけである、いろんなことで定石だらけである。ただ、定石だらけで困ってる人をよくみる。また、自分がおかれている状況や形勢判断を正しくしようとするよりは、その定石は誰が指したのか、最した人の実績や肩書きがどれくらいなのかということに盲信して選択を誤っている人もよくみる。

だから、結局はものの見方に行き着くんだと思う。そして、それを見てどう感じたのかという感性の問題になるんだろうと思う。

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優しく 暖かく


最近のレッスンで「ネタじゃないんだけど」って前置きをして「自分の打ったボールは自分の子供だと思って」「すぐに見捨てたらだめ」「どこにいったか知らないではだめ」と言ってる。『ネタじゃないんだけど』っていう前置きは、それがレッスンを面白おかしくするための、うまい言い回しだとか小話ではないということを強調したかった。本当に心の底からそう思ってるから。

ウミガメは一度の産卵で100匹ほどが孵化する。その中で大人になるまで生き残れるのは0、2から0、5匹ほどだそうだ。人間は一度のお産で多くても5人までだ。(もっとも五つごちゃんですら珍しいが)最近の平均寿命が延びたのも、生まれてすぐに亡くなってしまうことが昔に比べて減ったことが一番の要因である。ウミガメの子供は孵化したらみんな散り散りに海に入っていく。それを親のウミガメはほったらかしだ。しかし、人間はそんな育て方をしない。赤ちゃんの頃は母親の24時間ほぼずっと一緒だし、幼稚園や小学校に入っても家族と一緒にいる時間が長い。中学や高校になれば家族で過ごす時間は減るが、基本的に一緒に同居してる。生まれてから15から20年くらいは誰かに見守られて育つのが人間の特徴だ。

人間の生殖器系は女の子で10歳くらいから、男の子で12歳くらいから発達する。けれど10歳や12歳で子供を作ったりはしない。基本的に子供を見守っていく義務があるから親になる準備ができてからでないと産むことが難しい社会になっている。

つまり、人間の子育ては生まれるということに対しての前後(準備と見守る)がとても長いことが特徴なんだ。それがテニスにとても似ていると思ってる。親として子供を作るまでの期間(入射)と子供が生まれてから巣立っていくまでの(発射)という関係性がテニスと一緒なんだ。入射に問題があれば、発射の見送り方にも問題がでる。発射の見送り方が悪いと、次の入射に対する準備が遅くなる。

早すぎてもだめ

遅すぎてもだめ

ちょうどいいタイミングってのは、自然か不自然かという判断になる。だからテニスの指導方法を文書化なんて絶対にできないんだけどね。

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まだまだ


純粋な子供たちが、僕の仕事を見たら「毎週同じこと言ってるね」って言われそうだ。子供は毎週同じことをいわれるとうんざりだから、あまり好ましくないと思われるかもしれない。けれど、同時に子供はいろんなことをいわれるのも嫌いだ。同じこというと「前にも聞いた」となり、いろんなことをいうと「意味がわからない」となる。何かを指導したり、教えたり、伝える、ということは、そういう難しいところがある。けれど、それが最もおもしろいところでもある。

僕のタブレットには、毎日若手のレッスン内容が送られてくる。それを見て、ときには「いつまでこれをやってるねん」と思い、ときには「ころころ内容変えすぎや」と思う。それでレッスンのことについて若手にいろいろいうことがあるんだけど、若手からは悪い意味で「いつもいってることが違う」と思われ、僕は「いつも同じことをいってるのに」って思ってしまう。

「本当に大切なことだけを、いつもいってほしい」と思ってる生徒さんが多いクラスは上手くいってるのだろう。そう思われてないってことは伝わってないんだろう。

まだまだ だなあ。

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ありのまま


『考えすぎ』ってことには良い意味と悪い意味があるのではなかろうか。

悪い『考えすぎ』というのは何事も良い結果を生み出さない。悪い『考えすぎ』ってのは結果しか見えてなくて、失敗を過度に恐れる。良い『考えすぎ』ってのは興味から生まれてて、興味があるから、好きだから、夢があるから、頭からやりたいことが離れない。だから、前者は行動が遅れ視界は狭くなり、後者は行動が早くなり視界は聡明となる。

わかっちゃいるんだけど、この辺のバランスを取るのはとても難しい。メンタル的なことだけでもない。自分の加齢や疲れ、体調などの生理的なものから、お天気や季節などの自然現象、周りの環境や人間関係など様々な事柄が関わってる。

結局は、ありのままをある程度受け入れていく覚悟というか許容みたいなものが必要なんだと思ってる。例えばテニスの試合なら、相手に完璧なプレーを1試合通してされたら絶対に勝てないという事実を受け入れるべきである。ただし、自分が完璧なプレーができるのが一年にあるかないかという頻度なんだから、相手もそんなもんだと思えばいい。本当にいいコースに打たれる球質のいいサーブは返せない。相手に待たれてしまったボールを的確に打たれたら仕方ない。

だから、必要最低限のことだけはやっておかないといけない。これは調子が悪いときでもやらなきゃいけない。それ以上のことは調子がいいときにやればいい。

今日は身体がとても重かったけど、どこに打って、どこから飛んできて、それを相手がどんな入り方するかだけは見たよ。

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落合博満


いつも、物事をシンプルに捉えたいと思ってる。そして、それをシンプルに伝えたいと思ってる。けれどシンプルってのは考えるのも実行するのもとても難しいことで、ちゃんとその物事についての深い解釈と理解、実践がないとシンプルにはできない。だから、天気がいい日がずっとは続かないように、時々自分の物事に対する無知と浅はかな解釈と理解、実践を思い知らされるような日がある。

6月になって(まだ2日だけど)とても調子がいい。調子がいいときは、とてもシンプルに物事を捉えられてると思う人の本なんかを読んだりする。調子の悪いときは打ちのめされるから読まない。

やっぱり落合博満って人はすごい人だよなあって感心した。

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準備の準備


小学校の頃、前の日に時間割を見てランドセルに教科書を入れるという準備をしなければいけなかった。母親に「なんで?」と聞いたら「天邪鬼」と怒られた。学校の先生になぜ宿題をしないといけないのか質問したときも同じだった。中学に入ると予習もしとかないといけないと言われた。そして、どれもちゃんとやらずに生きてきた。

そんな僕も、今では事前準備を怠った若者を怒ってる。ただし、それに対して「なんで?」と聞いてきたらちゃんと答えるようにしてるつもりだ。答えれないことについては怠っても怒りはしない。

大切なのは準備そのものより、なぜその準備が必要かということに答えられるかどうかなんだと思う。みんながやってるから、常識だからと思われてる準備はさほど大切じゃないような気がする。なぜその準備をするのかがわかった準備と、常識としてやる準備は、その準備の準備が違うような気がする。

テニスのスプリットステップは常識なのかな。意味もなくぴょんぴょん飛ぶのを見てちょっと首を傾げながら。

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思ってること 嬉しかったこと


テニスボールは打つもんじゃないと思う。のせるもんじゃないのかなあ。狙ったところに、はこんでるんじゃないのかなあ。

その中で

ときには 抑え

ときには 落として

ときには 持ち上げて

たまには 切って

たまには 引っ掛けにいく

別によそ様と差別化しようとして言ってるわけでもないし、人とおんなじことを言いたくないわけでもない。純粋にテニスボールは打つもんじゃないと思ってるだけ。先週は生徒さんじゃなく、同じコーチに『ボールは見ない』ということをわかってもらうのに1時間かかったしね。先々週は若手コーチに『ラケットは振ってない』ということをわかってもらうために1時間かかったしね。けれど、みんなわかってくれたのがとても嬉しかったんだ。

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切望


技術ごとというのは、その成長過程に段階がある。

一つ目は挑戦段階だ。挑戦段階はトライであり、試作としてのテスト段階だ。この段階では『出来た』とは言い切れないプロトタイプでしかないんだけど、何のプレッシャーもないし、怖いもん知らずで、成功体験が何でも初体験だから楽しい。

二つ目は確率を上げていく段階だ。これはプロトタイプとして出来たものを、実戦で使えるように、より確実なものに仕上げていかなくてはならない。この作業はとても楽しいとはいえず、むしろ苦痛が伴う場合もある。

心の中では一つ目の挑戦段階では『希望』である。二つ目の確率を上げていく段階では『希望』では足りない。『切望』しないといけない。

GW前のレッスンで出来たプロトタイプを守ろうとしすぎて、生徒さんが何をしたいのか見失ってるクラスがあった。もう『希望』じゃ足りなくて、そこに対して『切望』しないといけないから、厳しく「ここに打たない」「ここに打て」と連呼した。確率を上げていくというのは、ミスなく入れていくのではなく、やりたいこと、やりたいコースを明確にして、それに対して『切望』しないといけない。

前を見るということも、とまるということも、それに対して切望するということなんだ。

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世界は一つ


見るということと聞くということは違う世界であるとされる。見るのは目だし、聞くのは耳だし。話すということと臭うということも違う世界。けれど、それは人が何かを理解するために、必要性があって分類したことであってそれらを一つの世界だという見方もできる。

たとえば私も『飛んでくるボール』『打ちたい方向』『打点』と3つに分類して説明するときがある。けれどそれらは一つの世界でもあり、私の世界の『前』という一言で完結できるものでもある。

全く違う世界もストーリーとか順番、流れで見ると同じ世界かもということに気づくと面白い。実は全てが一つでつながっているのかもしれない。分類ということが理解をする上で必要不可欠なものであると同時に、その分類が理解を邪魔することがあるというのも事実である。

そんなことを考えながら、今日も遊びにいく。

そういえば日本と北朝鮮も違う世界じゃないよね。

 

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負けを認める


将棋のおもしろいところの一つとして、勝敗を決めるのに、どちらかが『負けを認める』ということで決着するゲームです。実は相手の王将と取るゲームではないのです。ですから、将棋の王手というのは実際に王将を取るための手ではなく、王将を追い詰めていくための手段でしかありません。

人が何か成長するときというのは、この『負けを認める』ということの積み重ねなのかもしれません。しかし、この『負けを認める』というのが苦手な人がいるようです。とくに肩書きのある偉い人だと思われている人に多く、その責任逃れのような行動が潔くない場合が多いようです。そのため、悪い意味でのプライドの高さみたいなものが大きな原因だと捉えられているようですが、私は違うと思っています。責任者のような立場の人間の責任逃れというのは目立つため、わかりやすいのですが、そうでない人間も、子供でも『負けを認める』ということが苦手な人はいます。

私が思う『負けを認める』ということが苦手な人の特徴は、自分の手を指さないということです。自分以外の他人に言われた手を指す癖がついている人です。逆に周りになんと言われようが自分の信じた手を指す人は、自分の手に責任が発生しています。そのため、責任転嫁のしようもなく負けの原因や根拠ももはっきりとわかります。子供でも親の影響力が強すぎて、いつも親の顔色を伺っているような子は『負けを認める』という感性が少ない傾向にあると思います。また、『負けを認める』というのは自分にはない勝った人の価値観や考え方を称え認めるという感性があるため、自分の意見を貫くだけの頑固者にはなりにくい傾向があります。

プロ野球選手の多くが自分で引退を決めることができません。ほとんどが戦力外という自分以外の人の判断で現役を退くことになります。そんな多くの選手の中で第二の人生を失敗する人にはある傾向があるようです。怪我と監督、コーチなど周りの言うことを信じすぎてしまった人です。つまり、どちらも「あのときの あれがなければ」という後悔する要素があるのです。それには自分の責任とは認めたくない部分での原因や根拠が見えてしまい、『負けを認める』というのが難しいのでしょう。

潔い人間でありたい。

そのためには『負けを認める』感性がないといけない。

その感性は『自分の手を指す』という勇気が必要なのでしょう。

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