39の夜


今、学校で習ってる小数点が苦手な長男に、小数点を教えてくれと嫁に頼まれた。真面目に教えようとお父さん先生をしたけれど、話はどうも脱線してしまう。息子に聞くと消費税の問題が出るらしく、消費税を説明しようとしたことが話が脱線しすぎた理由だと思う。

物事を分類するという中で『変わるもの 変わらないもの』という概念で分類するというのはオーソドックスなやり方だ。経費でも売上でも『変動 固定』にするということから始めるように。消費税の計算方法なんて値段に1.08かけるのと、逆に割るのと、0.08かけるくらい覚えてりゃ、あとは計算機で簡単にわかる。けれど消費税だけじゃなく、これから税法というのがどう変わっていくのかは難しい。それで税とはどういうもので、昔はそれがお金じゃなくてお米だったとか秀吉の太閤検地とかを説明しはじめたらどんどん脱線していった。税は消費税だけじゃなくいろんなものにかかっていて所得税から土地、自動車、酒、煙草などの税率を一緒に調べていった。所得税なんかは年収の額が大きくなるにしたがって割合も大きくなるから、私の給与明細を見せて実際に計算したり、大きな金額を稼ぐプロ野球選手の所得税を計算したりして遊んだ。

すると話はまた脱線して、小数点というものを扱う数字が変化するものに多いということに子供が気づいたから話は確率の話になった。長男がやってる野球も打率や防御率といった数字がある(防御率は少し難しいからパス)それをまた遊びながら計算したりした。

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あまりに脱線しすぎたので、私ははじめに長男に何を 伝えたかったんだろうかと考えた。最も伝えたかったのは『変わるもの 変わらないもの』があるということだ。『変わるもの』が一つ変わると他にも変わる部分がある。そして、それがなぜ変わったのかということを理解することの大切さである。それに『変わらないもの』もある。それはそれで『変わるもの』に影響されても変えちゃいけないものもあるということだ。よくよく考えると、私が生まれたときに消費税なんてなかった。はじまった当初は3%だった。学生時代は5%だった。自動販売機のジュースをはじめて買ったときは100円だったし、よく買ってた頃は110円だった。けれどいつに間にか130円になってる。そんな話をしてたら尾崎豊の『15の夜』が頭に流れてきて、昔は自動販売機のジュースが100円だったことを証明するために聴かせてあげた。

最初は『闇の中 ぽつんと光る 自動販売機 100円玉で買える温もり 熱い缶コーヒー握りしめ』を聴かせるだけだった。けれど、歌詞冒頭の『落書きの教科書と 外ばかり見てる俺』にはじまり、やりばのない気持ち 逃げ場のない 背を向けながら 大人たちを睨む 家出の計画を立てる 自分の存在  誰にも縛られたくない 逃げ込んだ夜… と、なぜか心に響くフレーズばかりだった。そういえば、先月の会議みたいなやつで、私はずっと落書きして別のことを考えてた。真剣に話せばウザがられ、現実論を話せば場をしらけさす。昼ごはんも一人で食べて、夜の忘年会も辞退して一人で帰った。私が尾崎豊を知ったのは中学二年生だった。14歳で聴いたときも同じように心に響いたことを今でもはっきりと覚えてる。それが39歳になった今でも心に響く。9歳の長男の心にもいずれ響く歌になるのは間違いない。

あっ、そんなことより自分がテニスコーチだということを忘れてた。相手がベースラインにいても未来永劫ずっと後ろにいるわけじゃないよ。チャンスボールだと思っても、自分はどこに立ってるの?そして相手はどこに? そのためにはどんな軌道をどこまで描くのかな。そして次にどこへポジションを変えるのかな?

テニスでは行く先のわからないまま走り出したら駄目だよ

自由になれた気がしたでは駄目だよ

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迷うということ


12月にもなると至る所で、今年一年を振り返るようなことが多くなる。私もついこないだスタッフミーティングを開いた。そこで私なりの反省としてここ数年に渡って自分の『直感』に頼りすぎたことをスタッフに詫びた。いわゆる少し調子にのっていたところがあったと感じてる。昨日は将棋界で前人未到の永世7冠という記録を棋士の羽生善治さんが達成された。その羽生さんへの憧れもあり、羽生さんの著書によく出てくる『直観力』というものを、自分に都合の良いようにだけ解釈してしまった節がある。私の現在の能力では『直観の7割は正しい』というレベルになく、そのレベルでの直感を使ったのでは確率的にも50%という半丁博打みたいなものでしかない。テニスの試合に勝つ傾向の一つとして、3ポイント連取の数が多い方が勝つというものがある。半丁博打の確率で、3ポイント連取するというのは1/2の3乗だから12.5%しかない。つまり博打程度の確率では何をやっても上手くいくはずがないのである。

生徒さんには「迷うな」と言っておきながら、私自身が勘違いで迷ってないと思っていただけであり、実際には迷うべき能力しかないことを気付かされた一年だった。しかし、勝ち続けている頃の裏腹にある不安ではなく、負けてもその根拠がはっきりして見えていると逆に不安が少なく、前向きに進めそうな気がしているのも事実である。迷う状態というのは状況として良くないのかもしれないが、それは進歩していく中で必要なものでもあると考えられる。逆に迷ってないというのは、状況として良いときもあるのだが、勘違いや自惚れで、本当は理解していないのに理解してると思い込んでるときでもある。

『忘れる』ということにかけては右に出る者がいないといえるほどの得意分野なんだから、正しい反省をして来年につなげていけたらなと思いながら、独りで煙草をふかす夜であった。

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上達


自分でテニスが上手くなったなあって思うときがある。他人に自分のテニスが上手くなったと思われるときがある。それぞれに感じるところがあって思うんだろうけど、その本質的な部分まで掘り下げていくと結局は『予測できること』が増えたんだと考えてる。ただし、予測ができるという一点で考えているのではない。例えばサーブに問題があってそれを克服するために練習してセカンドサーブの質と率が良くなったために、ファーストサーブに余裕ができたり、サーブ打った後の展開が早くなったりというようにショットや動き、確率といった線としての流れを通して『予測できること』が増えたという考えだ。

すると、この私なりの上達の解釈から考えた場合に『予測できること』が増えるというのには大きく二つのルートがあると考える。一つ目は打ち方から入るルートと、二つ目は展開から入っていくルートである。線で考えるからには、打ち方も展開もどちらも必要なのだが問題は順番と重要度だ。私はこの二つのルートに正解はないと思っているが、人によっての適正と不適正があると考えているのだ。

そこで考えるべきは体力、時間、環境である。年齢的にも若く、体力もあり身体能力的にも欠陥が少ない。しかも時間的なゆとりもある。日に4時間以上、週に5日はテニスをできる。環境も自宅や近所にテニスコートがあるとか、その練習レベルに合った練習相手もいつもいる。極端な例ではあるが、このくらい体力、時間、環境にゆとりがあれば打ち方から入る方が適正であろう。もっとゆとりがあれば肉体改造することも可能かもしれない。しかし、ほとんどのテニス愛好家にそんなゆとりはない。それなのに展開よりも打ち方が大好きな愛好家が多い(これは日本人特有なのかもしれないが)

持論ではあるが、テニスはフィットネスではなくゲームだと思ってる。相手があってのテニスであり、そこには相手のことを考える、見るといった『予測ができること』がベースにあると思ってる(持論ではあるがとは書いてるけど本音は絶対にそうだと思ってる)そして、それを考えて、それを意図した軌道を描くことができれば自然と打ち方は適切になってくる。これがあってからの打ち方の反復なんだと思う。

そして打ち方の反復には時間、場所と相手がいる。それを自分に合わせて手配できる人は少ない。そこで私が重要だと思うのが『ひとり練習』だ。壁打ちを含めて、自分でボールを打ったり、何かをボールと見立ててイメージしたりというようなひとり遊びができないと上達しない。(今同業の若い連中にやらしてるのもこれを学ばせるため)ただし『ひとり練習』であり『ひとり遊び』でもあるのだから、これを心底楽しめるというのも才能の一つである。忙しい奴より暇つぶしの上手い奴に賢いのが多いのもこれがある。

どっからボールは飛んできたの

どんなボールが打ちたいの

それは何のために

じゃあどんな軌道にすればいいの

じゃあそこを見ればいいじゃん

次に動いてりゃいいじゃん

 

たったこれだけなのにね。

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練習とは


練習というのは実践に即して行うというのが基本だ。けれど例えばテニスの練習で手でボールを送ってもらう練習がある。これは現実にはありえない軌道で飛んでくるボールを打つんだから一見すると実践には即していない。ネットの向こう側からラケットでボールを送っても、送る側の立つ場所であったり角度によっては実践に即しているとはいえない。しかし、こういった一見すると実践に即していない練習というのは全てが間違いではない。むしろ過程としてみると絶対といっていいくらい必要だ。問題はそれをやれと指示するコーチ側や、それを出してくれと頼む練習する側がどういう意図でやっているかということが大切なことだ。また、その意図というものは同じメニューでもコーチ側や練習する側によって違いがある。

野球のイチロー選手が打席に入る前の素振りである。 

この動画の後ろ(ベンチの中で)にもイチロー選手と同じ左バッターが、相手投手のピッチング練習にタイミングを合わせてる。けれど意図は明らかに違うように思われる。私もテニスでこのイチロー選手のような素振りや、自分でトスして同じような形でゆっくり打つという遊び練習をよくする。ただし、当然ながらこの意図とイチロー選手の意図が同じかどうかは、その本人同士に聞いて見ないことにはわからない。

どんな世界でも、技術を習得するというのに練習は不可欠だ。そのときにどんな世界でも、その世界でのメジャーな練習方法というのがある。その数はさほど多くはない。しかし、それぞれの練習の意図というのは深く掘り下げていくとたくさんある。けれどこの深い部分での掘り下げなしに技術の習得は難しいと思っている。また、その意図が時とともに新たに加わったりするもの、変わることというのもある。逆に深く掘り下げないにしても、絶対にこの目的でやっちゃいけないこと、こういうやり方を絶対にしちゃいけないことというようなことくらいは理解してやらないと、余計に悪い癖がついて、練習時間と技術向上が比例しない。

そして、それらの意図というものに一貫した繋がりが必要だ。それを脈絡といい、練習には目的に沿った一貫した大きな芯が通ってなきゃいけない。これら全てを含めて『実践に即した練習』と私は解釈してる。

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ソビエト連邦共和国


『リストラ』という言葉の意味がはき違えられているように、人が人を通して理解するために必要不可欠な言葉という道具が、うまく使えていないということがある。また、『何を言ったか』より『誰が言ったのか』『みんな言ってることか』が優先される人には余計に違う解釈をされてしまう。とくに日本という国はこれから超少子高齢化時代に突入するんだから『リストラ』がとても必要になってくる。

同じような言葉に『ペレストロイカ』という言葉がある。意味は再構築ということだが、1980年代の後半にソビエト連邦のゴルバチョフ書記長(後の大統領)が破綻しつつあった社会主義国を再建しようとしてとった政策名のことである。この言葉自体もとても素敵な言葉なんだけど、結局は失敗になってしまったこと、ソビエト、ロシアという国の印象の悪さから、素敵な言葉とかそういう意味があるとか思われていない。

僕がレッスンで教えてるのは、まさにこの『リストラ』と『ペレストロイカ』である。足し算より引き算という要素が強く、気をつけないととても悪い意味で捉えられてしまう。いい意味でいえばシンプルとか無理のないってことなの。

そして僕はAB型だから二面性の男である。僕の中にはゴルバチョフのような平和主義者である一面と、プーチンのような目的達成のためには手段を選ばない一面がある。ソビエト、ロシアという国に僕が僕を理解するためのヒントが隠れてるのかもしれない。

あっ、それから仕事の方でも来年から本格的に『リストラ』と『ペレストロイカ』するよ。

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後悔


仕事から早く帰ってこれたときは『お父さん先生』といって、夜に我が子二人に授業をするときがある。授業内容はその時々で違うが、私の得意な歴史などについて子供に授業を開く。昨日は新たな授業を新設した。『こども先生』である。

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子供にもちゃんと理由を告白した。お父さんは学校の勉強で一つだけ後悔してることがあると。それは算数、数学をちゃんと勉強しとけばよかったということである。歴史なんかは興味を持った時代から広げていっても問題ない。例えば戦国時代に興味を持ってから幕末、平安、飛鳥時代などと順番に覚える必要性はない。しかし、算数や数学というのは積み重ねであり、掛け算が分からずに面積の問題が解けないというような上積み型の科目である。ふと考えると私が算数で挫折しはじめたのは小学4年生くらいからではなかろうかと思った。そこで長男(小4)に「今算数の授業は何をしてる」と聞いた。そしたら「計算するときの順番とかルール」っていうので、それを夜飯が終わったら教えてくれと頼んだ。すると子供に「なんで?」と聞かれたので全てを正直に話した。

お父さんには今の仕事をするうえで師匠にあたる人がいた。その人のレッスンに何度かアシスタントで入れさせてもらったり、後ろで見てると、ある日あることに気づいた。それが数学の証明問題にどこか似ていることだった。あとで知ったことだが師匠は関東で最も有名な暴走族の一員であったと同時に関東で最も偏差値の高い某有名私立大学にいたそうだ。それで立てた私なりの仮説が、師匠は『数学的なものの見方』ができる人なんだろうということである。数学なんてもんは、それを使う専門的な業種につかない限り、一切関わることがないのがほとんどだ。だから社会に出ても一部の人間しか必要性というのはない。けれど大切なのは数学の問題が解けるとか公式を知ってるということではなく『数学的なものの考え方、見方』を身につけるということは社会に出てから気づいてしまったのである。

長男に教わるときはとても純粋でいられた。わかってるつもり、知ってるつもりという邪念を持たずに素直に聞いた。また算数から小学生と一緒にはじめるというのは遠回りのようで、そうではないというような気がしてならない。時間はかかるだろうが。

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今日は、トーナメントクラスの人が出てる大きな大会があって、それをレッスンの合間に少しだけ見ていた。実際の試合でよく起こる場面や、各個人の問題は事前にレッスンで出来ていたというのが率直な感想だった。けれど結果が伴わない人がほとんどだった。結局は自分がやったつもりになっているだけで伝わっていないというのが現実なんだろう。なぜ、全員に伝わってないのか考えると答えは明白だった。私自身がちゃんと証明問題を解けていないからだ。仮定がわかってない、共通するところを見抜けていない、根拠に誤りがある、いやもっと根本的に証明しなければいけない結論が間違えてるのかもしれない。結局は全て算数、数学を勉強してこなかったツケが今になって響いている。

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そういえば数学者の岡潔さんも学生時代にテニスに熱中し、将棋が趣味であったそうだ。テニスや将棋というのはそういう意味でもどこか数学的なんだろう。しかし、私はそれがどんな世界なのかわからない。そんな今の救いは長男が数に強いことだろう。

長男殿 今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

 

脈絡がない


自分なりにテニスのことが少しずつわかるようになってくると、お友達が減ってくる。根本的な間違いに気付いたりするもんだから、たかだか遊びのテニスなんだけど、何か人間否定のようなアドバイスに取られかない。だから、最近はテニスのことを話しするときにその辺を気にしすぎて他人行儀になりすぎる。ゴッドファーザーのマイケルみたいな顔をしてることが多いんじゃないかと思う。自分では認めたくないだけで、ちょっとイライラしてるから子供たちにあたってしまうこともある。すごい自己嫌悪におちいる。

今日は休日だ。

雨で子供たちの少年野球もない。こんな日は何をすればいいのだろう。嫁が部屋の模様替えをしてるから手伝うべきか。子供たちは将棋してるから一緒に遊ぼうか。それとも本でも読みながら昼寝でもしようか。そんなこと考えてたら、なぜかアメリカにレイモンドっていう女子のテニス選手がいたことを思い出した。彼女のテニスが素晴らしかったというのが頭に浮かんでくる。

どうやら今の僕には、脈絡というのがないようだ。いやむしろ脈絡をわざとつなげようとしてないのかもしれない。テニスの試合に負けるときってこんなときだよね。

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展開


多数決で物事を決めるって公平なようでそうではない部分がある。正しいかどうかもわからない。例えば我が家族は男が3人で女が1人なんだから、多数決で物事を決めてしまうと嫁が全て不利になる。じゃあ権力で全てを決めたらどうなるか。これも問題が多い。我が家で働いてるのは父親の私だけなんだから、家族で旅行に行くのも、食事にいくのも全て私が稼いだお金を使うことになる。けれど、その権力を生かして全て私が決めてしまうと他の誰も喜ばない。

しかし、優柔不断も良くないように物事の決定が多数決であれ、権力であれ決まらない、もしくは決めるのが遅れるというのも困ったものである。ただ、その決定方法によく使われる多数決と権力というものがあまりにも強すぎて良くない結果を生み出しているような気がする。物事の決定、判断、決断には強い方法よりは、もっと抑えた少し弱いんじゃないかと思われるような方法が必要であるような気がする。たまには最も弱い立場の人間の意見を尊重したり、たまには最も強い力のある人に委ねるということもいいだろう。また、多数決もどんなに議論を重ねても決まりきらなくての最終手段として使えばみな納得することができるし、権力があるってことは同時にそれなりの責任があるわけだから、責任をとる人の立場も考える必要がある。

何かいろんなことで『浅いよなあ』って思うことが多い。私が教えてるテニスでも角度が鋭角ならナイスコースだとか、相手がいないところへ打てば「よく見てた」とか、スコアがなら6ー1なら圧勝だとか…。子供のテストでも90点以上だとよくできましたで、50点以下だと理解してないとか、会社の利益なら前年比増なら評価は高く、前年比を下回るとがんばってないとなる。つまり、物事をもう少し違った角度、深く掘り下げるってのは、もっと強くするのではなく、もう少し緩める弱い手の選択が必要な気がする。まだ、いろんなことで真実も本質も見えてないんだけど、そこに真実や本質は隠れてるんだと思う。それを展開というのだろう。

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斜め


そもそも論としてテニスのサーブ用語として使われる『スピン、スライス、フラット』とは何なのだろうか。僕はそれなりに10年以上のキャリアのあるテニスコーチなんだけど、その違いをわかってない。というか正直わかろうという気がない。僕はいつもスピンサーブと思われるサーブしか教えていない。昨日の一般クラスでやってたのも、今日のトーナメントクラスでやったのも、6歳の子に教えてるのも。

そういえば私がテニスコーチになったころ、よくテニススクールのジュニアなんかにサーブのトレーニングとしてラグビーやアメリカンフットボールのような長円系のボールを投げさせているところがいくつかあったのを記憶してる。ちょっとマニアックになると長い棒状のものをやり投げのように投げさせているのも知ってる。当時は流行ってたのかもしれないが、最近はあまりみなくなった。けれど、僕の理屈からするととても正しいものである。(投げる側から見て時計回りに回転しながら軌道を作ってる)これ以外のサーブをサーブとは認めてないくらいの偏屈君である。

どんな偉い人たちに何と言われようが僕にはサーブはスピン以外にない。1985年にベッカーがフラットサーブで彗星の如く現れたといわれているが、何度もyoutubeではみたがどうみてもスピンサーブだし、マッケンローの鋭いアドバンテージコートでワイドに放つサーブも僕にはスピンサーブにしか見えない。

たぶん、僕の頭の中が傾いてて物事を斜めからしか見えないからなんだと思う。サーブが全部スピンにしか見えないのは。

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失敗のチャンス


ドラフト会議は毎年面白い。なぜ面白いかのかっていうと、誰も、誰が活躍する選手になるのかわからないからだろう。上位指名の選手が活躍するわけではないし、下位の指名選手のほとんどは一軍に一度も上がらずに戦力外になることが多いのも事実だ。それぞれの球団で独自に編み出した評価基準というのがあって、それらが数値で細かく分析されているが絶対ではない。体格に恵まれても、人より走るのが早くても、球速があっても、飛距離があっても、これから活躍する選手になるのかどうかは誰にもわからない。

先週は選挙があったらしいが、結構な数で世襲議員というのが増えてるように思う。閣僚なんて半分以上ではなかろうか。中国の共産党大会でも世襲議員が多いらしい。結局は先行きが不透明で難しいことは何かと数値だとかAIを使った指標とか、世襲なんかの血統だとか保証のようなものがないと安心できないんだろうと思う。

身も蓋もないことだけど、1割の確率でヒットを打つ人と、3割の確率でヒットを打つ人を打席に立たせても結果は10か0しかない。安心な保証のある商品を使ってみても、保証のない商品を使ってみても、故障するかしないかという結果は10か0しかない。

清宮くんが「やっとスタートラインに立てた」って言ってたけど、その通りなんだと思う。これから何をするのか。どれだけ練習するのか。どれだけの経験をつめるか。どれだけの失敗できるチャンスを作るか。

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